里沼(SATO-NUMA)
「祈り」「実り」「守り」の沼が磨き上げた館林の沼辺文化

日本遺産
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日本遺産
里沼(SATO-NUMA)
「祈り」「実り」「守り」の沼が
磨き上げた館林の沼辺文化
館林の里沼

Introduction

館林の里沼

「祈り」「実り」「守り」の沼が磨き上げた
館林の沼辺文化
上毛三山や日光連山、筑波山などの関東の峰々や、遠くには富士山も一望できる館林。
関東平野の奥深く、利根川・渡良瀬川の大河に挟まれた地域にあり、そこには茂林寺沼・多々良沼・城沼・蛇沼・近藤沼という豊かな水をたたえる沼が5つあります。
茂林寺沼
多々良沼
城沼
蛇沼
近藤沼
沼はさまざまな動植物が生息する自然の源であり、その水を求めて人々が集い、水が人々の暮らしを支えるとともに、人が水を利用して大地を切り開き、まちや村が生まれ、そこに沼辺特有の文化が築かれてきました。
人里近くにある沼。自然と人が共生し、歴史文化をはぐくんできた沼。
人が自然と適度に関わることで環境が保たれている「里山」が日本の風土に根付いていますが、その概念をヒントに、沼のまわりで自然と共調しながら人が暮らし、歴史文化が育まれてきた沼も、「里沼」と言うことができます。
それが、日本の原風景として新しく価値づけられ、日本遺産に認定されました。
館林には、なぜ今もたくさんの沼が残っているのでしょうか。
その理由は地形にあります。利根・渡良瀬川に挟まれた館林地域は、河川の浸食によって台地と低地が複雑に入り組んでいます。河川によって土砂が堆積し、そこに水が溜まり、それが動植物の生息する自然の沼となりました。館林の5つの沼は、台地と低地の境目に位置しているのが特徴です。
沼は、先人たちが漁労や植物採集の場となり、沼の水を利用して用水を開削し、周辺の大地が潤される大切な場でした。しかし、人が暮らす地域にある沼は、新田開発や戦後の食糧増産、さらには近年の土地改良事業による都市化(住宅団地・工業団地)により、日本の風土から消え去っていきました。
館林の沼は、長い歴史の中で消滅の危機を乗り越えながら、今も5つの沼を見ることができます。人が暮らす地域で、これだけたくさんの沼が残されているのは、館林だけです。
そして、館林の「里沼」には、人との関わり方にそれぞれ特色がみられます。
それが、「祈り」「実り」「守り」というキーワードです。
「祈り」「実り」「守り」の沼
「祈り」の沼茂林寺沼
「祈り」は、人間の「心」をあらわします。

「実り」の沼多々良沼
「実り」は、人間が生きるための生業です。

「守り」の沼城沼
「守り」は、人が生きるための防衛と町や村を作るための英知の結晶です。
明治の文豪田山花袋は、少年期に見た、水草が繁茂する人が入り込めないような城沼の自然に畏れを感じていましたが、明治後期になって行楽客が集う拓かれた城沼の姿を見て、

「田とすかれ畑と打たれてよしきりも、すまずなりたる沼ぞかなしき」

と和歌に託しました。
沼の姿は時代によって変化してきましたが、館林に住む人々は、それぞれ心の中に自分の原風景となる沼の姿を持っていることがわかります。

昭和の高度経済成長期には、館林の沼の水質は悪化の一途をたどり、動植物が住めなくなる状況になってきました。これは、人々が自然を無視し、人間主体の生活を切り開いてしまったことで、「里沼」ではなくなってしまったことによります。しかし、地域の沼を守ろうと目覚めた多くの人びとは、水質浄化や自然保護に力を入れ、「里沼」の本来の姿がよみがえり始めました。
そして、春は湿原に芽吹く植物や沼辺の桜やつつじ、初夏は花ショウブ、夏は沼に入って楽しむ花ハス、秋は紅葉、そして冬はハクチョウをはじめとする飛来するたくさんの水鳥。「里沼」には、日常を忘れ、心が癒される沼辺景観が新たな価値として加わっています。
「里沼」は、これから自然と人がどう向き合って環境を守り、歴史文化を育むのか、私たちに未来へのメッセージを問いかけています。
先人たちの歩んだ道を見直すことで、日本の宝「里沼」の未来について、みなさんといっしょに考えてきたいと思います。
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