日本遺産

里沼(SATO-NUMA)
「祈り」「実り」「守り」の沼が磨き上げた館林の沼辺文化

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里沼(SATO-NUMA)
「祈り」「実り」「守り」の沼が
磨き上げた館林の沼辺文化

SATO-NUMA?

里沼とは?

沼は、古代・万葉の頃には「隠沼(こもりぬ)」と詠われ、
水辺の草木に囲まれてひっそりとした佇まいを持ち、
人を寄せつけない神聖な場であった。
いつしか、人々が沼に近づき集う中で、暮らしと結びつき、
沼と共生した生業や文化が生まれ、沼は「里沼」となった。
里沼は、自然と暮らしが調和した生活文化を今に伝える、我が国の貴重な財産である。
新田開発や近代化の波にもまれ、各地から沼が消え去りつつある今、
館林では、時を重ねながら、それぞれの特性を磨いてきた、希少な里沼を見ることができる。
自然と共調しながら人が暮らし、
歴史文化が育まれてきた沼
館林の里沼
人が自然と適度に関わることで環境が保たれている「里山」が日本の風土に根付いていますが、
その概念をヒントに、沼のまわりで自然と共調しながら人が暮らし、
歴史文化が育まれてきた沼も、「里沼」と言うことができます。
城沼
城沼
館林市中央部にある東西に細長い沼。西岸に館林城が築かれ、江戸期には人を寄せつけない「守りの沼」となっていた。南岸に名勝「躑躅ヶ岡」があり、北岸には「つつじ伝説」を伝える善長寺がある。春はつつじ、夏は花ハス遊覧など四季折々の景観を楽しむことができる。
城沼
多々良沼
館林市西北部の沼で、平安時代に行われた蹈鞴(たたら)製鉄から名付けられたという。中世期に大谷休泊により沼から用水が開削され、潤された台地では米麦の二毛作が盛んとなり、肥沃な穀倉地帯を育んだ。この「実りの沼」からとれる鯰や鰻などの川魚は貴重なたんぱく源となった。
城沼
茂林寺沼
館林市南部にある茂林寺沼とその周囲に広がる低地湿原。低地湿原は関東平野に残る数少ないもので、今も自然環境を良好に残す。希少種のコウホネやカキツバタなどの水生・湿原植物、トンボなど湿原の貴重な動物が生息する。
城沼
近藤沼
かつては「掘り上げ田」による農業が営まれた沼だが、現在は釣り人で賑わう。
城沼
蛇沼
絶滅危惧種オニバスが咲き、地域や学校の環境教育の場となっている。
「里沼」が育んだ
館林の文化・歴史・民俗
01群馬県天然記念物
茂林寺沼及び低地湿原
茂林寺沼及び低地湿原
館林市南部にある茂林寺沼とその周囲に広がる低地湿原。低地湿原は関東平野に残る数少ないもので、今も自然環境を良好に残す。希少種のコウホネやカキツバタなどの水生・湿原植物、トンボなど湿原の貴重な動物が生息する。
02建造物
茂林寺 (分福茶釜)
茂林寺 (分福茶釜)
1426年に沼の畔 に「祈りの場」として開山した茂林寺。江戸時代の本堂・山門があり、茅葺屋根には茂林寺沼の葦 が使用されてきた。貉 (狸)の化身・守鶴 がもたらしたという茶釜 「分福茶釜」が伝わり、明治期に巌谷小波 の童話 で全国に知られるようになった。
03群馬県天然記念物
茂林寺 のラカンマキ
茂林寺 のラカンマキ
茂林寺の本堂前にある樹齢約600年、樹高14mの巨木。茂林寺の開山とともに、刃先が尖っているため魔除けとして植えられ、「祈りの場」となった歴史を伝える。
04年中行事
堀工町のどんど焼き
堀工町のどんど焼き
江戸期から続く行事で、茂林寺沼近くにある熊野神社 の神事として行われていた。現在は地区の行事として、毎年1月15日に近い日曜日に、古いお札やだるまなどを焚 き、1年の無病息災を祈る。お焚き上げのヤグラは、茂林寺沼で刈った葦やナスガラなどを積み上げて作られる。
05名勝地
多々良沼
多々良沼
館林市西北部の沼で、平安時代に行われた蹈鞴 製鉄から名付けられたという。中世期に大谷休泊 により沼 から用水が開削 され、潤 された台地では米麦の二毛作が盛んとなり、肥沃 な穀倉地帯を育んだ。この「実りの沼」からとれる鯰 や鰻 などの川魚は貴重なたんぱく源となった。
06遺跡
多々良沼遺跡 (カナクソ)
多々良沼遺跡 (カナクソ)
多々良沼北岸にある遺跡で製鉄生産址として伝わる。現在の日向漁港 の沼辺では、冬に水位が下がると、「カナクソ(金糞)」と呼ばれる製鉄の時に出された鉱滓を見つけることができる。(※野鳥観察棟内に展示物有)
07地質鉱物
内陸古砂丘
内陸古砂丘
利根川 が形成した自然堤防の砂層で、館林市南西部から多々良沼東岸まで続く。砂鉄を豊富に含み、多々良沼の伝説につながる製鉄時の砂鉄や薪 などの資源供給地点となった。古砂丘斜面の松沼町遺跡 からは古代の炭焼窯跡 が発見された。
08群馬県史跡
大谷休泊の墓
大谷休泊の墓
中世の開拓者大谷休泊 の墓。戦国時代の館林城主長尾顕長 の招きに応じて領内に住み、渡良瀬川 からの用水(上休泊堀)と多々良沼からの用水(下休泊堀)を引いて、周辺の田畑を潤 した。多々良沼周辺の松林は大谷休泊の植林事業によるものである。
09館林市無形民俗
上三林のささら
上三林のささら
館林市南西部の上三林町 に伝わる民俗芸能。多々良沼からの用水により二毛作が盛んとなった地域で、江戸中期から五穀豊穣 と厄病神追払 の祭事として行われてきた。町内の雷電神社 祭礼に合せて棒術と獅子舞を奉納しながら、地区内を巡行する。
10県重文
封内経界図誌
封内経界図誌
安政 2年(1855)に館林城主秋元志朝 によって作成された領内52か村の彩色村絵図。村ごとに土地利用が色分けされ、江戸時代の沼の形が一目でわかる。河川や田畑、集落の範囲も描かれ、人々の暮らしと沼との関わりを知ることができる。
11有形民俗
沼 の漁具と日向舟
沼 の漁具と日向舟
館林市内の沼では、舟に乗って集団で行う追い込み漁のほか、ハズ漁・ヤス漁などが行われ、様々な漁具が生まれた。沼により使用する舟も形が違い、多々良沼の舟は、冬に凍結した氷から舟べりを保護するために一枚板を取り付けており「日向舟」と呼ばれている。
12無形民俗
川魚料理
川魚料理
沼が点在する館林地域では、昔から鯰・鯉・鮒・鰻 などの川魚料理 が食されてきた。館林のもてなし文化の特徴として、川魚料理をふるまうことがある。中でも鯰が有名で、天ぷらや小麦粉をあえて揚げたタタキアゲは、この地域の代表する料理となっている。
13名勝地
城沼
城沼
館林市中央部にある東西に細長い沼。西岸に館林城が築かれ、江戸期には人を寄せつけない「守りの沼」となっていた。南岸に名勝「躑躅ヶ岡 」があり、北岸には「つつじ伝説」を伝える善長寺 がある。春はつつじ、夏は花ハス遊覧など四季折々の景観を楽しむことができる。
14館林市重文
上毛館林城沼所産水草図
上毛館林城沼所産水草図
弘化2 年(1845)に描かれた巻物で、当時の城沼に生息していた水草などを描いた彩色図譜 。オニバス、ジュンサイなど12種類の花や藻などが見られ、今は消滅した城沼の動植物を知ることができる。
15館林市史跡
館林城跡
館林城跡
城沼を天然の要害とした城で、沼に突き出た台地の地形を巧みに利用して造られた。三の丸には江戸期の土塁 が残り、復元された土橋門 と一体となって城跡の面影を伝える。明治維新後の旧藩主による城沼開拓に関わる記念碑もある。
16建造物
尾曳稲荷神社
尾曳稲荷神社
城沼を望む台地上にあり、館林城築城の白狐による縄張 り伝説に由来する神社。城の鬼門 (北東)となる稲荷郭 に位置し、館林城の鎮守となった。境内には館林城改修で奉納された手水鉢 や、城沼の景観を詠 んだ館林出身の文豪田山花袋 の歌碑 がある。
17館林市重文
館林城絵馬
館林城絵馬
幕末の館林の浮世絵師北尾重光 が、館林城と城沼を描いた極彩色の絵馬。明治6年(1873)に尾曳稲荷神社 に奉納された。城沼が鮮やかな青色で塗られ、城の建物が沼に浮かぶように描かれ、「守りの沼」を鳥瞰 することができる。
18国名勝
躑躅ケ岡 (躑躅)
[つつじが岡公園]
躑躅ケ岡 (躑躅)
城沼南岸にあるつつじの名勝地。城沼に入水した女人「お辻」を偲 んでつつじが植えられた伝説があり、歴代の館林城主の保護のもとで、回遊式の大名庭園となった。樹齢800年を超えるヤマツツジやキリシマツツジの古木群など約1万株のつつじが植えられ、城沼と一体となった景観は、「花山」と呼ばれ親しまれている。
19群馬県史跡
善導寺 (榊原康政 の墓)
善導寺 (榊原康政 の墓)
城沼北東岸にある、近世初代城主榊原康政 の菩提寺 。榊原康政は、沼に面した館林城をより堅固な城にするため、台地上に城下町を整備し、周囲の低湿地を開発して治水・利水事業を進め、守りを一層固めた。境内には康政をはじめ榊原家の墓所がある。
20館林市史跡
善長寺
善長寺
城沼北岸の寺院で、沼対岸に名勝「躑躅ヶ岡」がある。境内にはつつじを愛でたという榊原忠次 の母「祥室院殿 の墓 」や、つつじ伝説を伝える「お辻・松女 」の供養墓 がある。つつじの季節には、対岸のつつじが岡を結ぶ渡船が運航される。
21遺跡
竜の井・青龍 の井戸
竜の井・青龍 の井戸
城下町に残る城沼に関わる2つの井戸。竜 の井は 旧善導寺 境内にあり、女人の姿をした城沼に棲 む龍神 の妻が、寺の説話を聞いて井戸に姿を消した伝説が残る。青龍 の井戸 は、徳川綱吉 が館林城主時に、この井戸から女官姿 の清瀧権現 が姿を現したといわれる。
22館林市重文
旧館林藩士住宅
旧館林藩士住宅
館林城に仕えた藩士の屋敷。茅葺 き屋根の建物で、館林藩士の暮らしの様子を伝える。屋根の茅は、沼茅(葦)が主に利用されてきた。明治維新後、士族授産による城沼の開発に多くの館林藩士たちがかかわった。※鷹匠町武家屋敷武鷹館として土日祝日公開
23遺跡
古蹟洗堰
古蹟洗堰
城沼の水を排水し水位を調節するための堰 。中世の武将楠木正成 が敗死し、その首を持って逃げてきた家臣たちがこの堰で首を洗ったという伝説がある。堰の脇に石碑と楠木神社が建つ。現在、城沼の水はこの堰から鶴生田川・谷田川を経由して渡良瀬川に流れ込む。
24建造物
竹生島神社
竹生島神社
江戸時代は城沼の入り江となっていた場所で、弁天が祀られて「浮島弁天 」と呼ばれ、明治期に城下町の近江商人によって琵琶湖の竹生島神社を勧請した。境内に昭和初期に行われた城沼耕地整理記念碑があり、低湿地開拓の歴史を物語る。
25無形民俗
城沼の渡し舟
城沼の渡し舟
明治期の館林駅開業により、駅からつつじが岡へ向かう最短ルートとして行楽客に利用された。昭和初期まで竹生島神社脇に「弁天 の渡 し」があったが、現在は「尾曳 の渡 し」と「善長寺 の渡 し」から運航され、7~8月には花ハスクルーズの遊覧船が運航される。
26絵画
小室翠雲 画
「邑楽公園躑躅ヶ岡之図 」
小室翠雲 画
館林出身の画家小室翠雲 が、明治28年(1895)に描いた彩色画。「邑楽公園躑躅ヶ岡之図 」と題し、城沼とつつじが岡に集う人々が描かれ、明治時代の沼辺景観を見ることができる。※館林市第一資料館蔵
27建造物
旧秋元別邸
旧秋元別邸
館林最後の城主秋元氏 ゆかりの和風建築物 で、明治末期に城沼を望む館林城の八幡郭 に建てられた。主屋に広間があり、離れ座敷に茶室と洋館がある。庭園には沼で投網をする秋元氏の銅像がある。四季を通じて沼辺文化を彩る、館林の迎賓館 としての役割を果たしてきた。
28国登録有形
正田醤油㈱旧店舗・主屋
[正田記念館]
正田醤油㈱旧店舗・主屋
城下町で江戸時代から商家を営む正田家は、「実りの沼」によって育まれた館林特産の小麦や大豆を材料にして、明治6年(1873)に醤油醸造を開始した。正田記念館は嘉永 6年(1853)建築の店舗・主屋で、正田家の歴史と醤油醸造関連資料が展示されている。
29建造物
東武鉄道館林駅
東武鉄道館林駅
明治40年(1907)に東武鉄道が川俣 から足利 まで開通した際に開業。駅舎は昭和12年(1937)建築の木造2階建てモルタル瓦葺 で、正面中央に時計をはめこんだ意匠が特徴。明治末期から城沼とつつじが岡を訪れる行楽客の玄関口となってきた。
30建造物
創業期日清製粉館林工場事務所
[製粉 ミュージアム本館]
創業期日清製粉館林工場事務所
明治43年(1910)に日清製粉株式会社館林工場の事務所として建てられた木造2階建ての洋風建造物。「実りの沼」によって育まれた館林特産の小麦を原料として、日本近代製粉業発展の歴史を伝える。創業110周年を記念して製粉ミュージアム本館として公開。
31群馬県重文
旧上毛 モスリン事務所
旧上毛 モスリン事務所
明治42年(1909)に、城沼を望む館林城二の丸跡に建設された毛織物工場の事務所で、木造2階建ての洋風建造物。近代館林の産業発展を支え、城沼の守りを生かした工場群となっていた。花の季節には、従業員の慰安でつつじが岡へと繰り出した。
32国登録有形
分福酒造店舗
[毛塚記念館]
分福酒造店舗
江戸期から、城下町で酒造業を営んでいた木造2階建ての商家。建物の脇に「龍水の井戸」と呼ばれる井戸があり、かつて「龍水」という銘柄の清酒を醸造・販売していた。里沼の水源となる良質な地下水により、城下町に酒造業が発達した。
33建造物
旧館林信用金庫
[市役所市民 センター分室]
旧館林信用金庫
大正末期に発足した館林信用金庫の近代建物。昭和9年(1934)建築で、鉄筋コンクリート造2階建、タイル貼りの外壁や入口の装飾が特徴。大正から昭和初期にかけて町の経済発展を担い、沼辺のもてなし文化の原動力となった。
34国登録有形
旧館林二業見番組合事務所
旧館林二業見番組合事務所
昭和13年(1938)建築の芸妓置屋 と料理店業 の組合事務所。木造2階建の重厚な瓦屋根が特徴で、2階に芸妓 の稽古用舞台と大広間があり、昭和前期の館林の花街の中核となった。つつじが岡で芸妓たちが行楽客を迎え、沼辺のもてなし文化に華 を添えた。
35館林市史跡
田山花袋旧居
田山花袋旧居
江戸時代後期に建てられた茅葺き屋根の武家屋敷で、館林出身の文豪田山花袋 が、明治初期の少年期に過ごした。花袋は城沼や城跡の風景をこよなく愛し、小説「ふるさと」にはこの家や城沼の景観が克明に描かれている。
36歴史資料
田山花袋関連資料
(田山花袋記念文学館)
田山花袋関連資料
城沼を間近に望む田山花袋記念文学館には、代表作『蒲団 』『田舎教師 』等の初版本 のほか、原稿、書簡、日記、愛用品など資料約1万点が所蔵されている。展示室には小説「ふるさと」の自筆原稿と城沼の古写真があり、沼辺を愛した花袋文学の世界へと誘う。
37民俗
館林のうどん
館林のうどん
江戸期に「饂飩粉 」(小麦粉)は館林藩の特産として将軍家へ献上された。「里沼 」と利根川・渡良瀬川 の水資源が肥沃な大地を生み、長い日照時間と赤城颪 と呼ばれる空っ風による乾燥した気候からうどんの産地となった。“麦都”館林のもてなし文化に欠かせない名産品である。
38民俗
麦落雁
麦落雁
大麦粉を利用して作られる麦落雁は館林を代表する銘菓 で、文政 年間(1818~30)に完成して以来、館林城主献上の栄を賜ったという。城下町に根付いた茶道菓子から発展し、明治時代には「つつじが岡」の園内で館林名産として販売され、沼辺のもてなし文化を彩るものとなった。
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